ニクソンショック
英語: | Nixon Shock |
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分類: | 出来事(ショック) |
ニクソンショック(Nixon shock)は、アメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領(1913/1/9-1994/4/22)が、1971年8月15日に発表した「金とドルの交換停止」を主に指すほかに、1971年7月15日に発表した「ニクソンの中国訪問予告」を指すこともあります。
どちらも1971年の夏に起こった、既存の世界秩序を変革する米国の大きな方針転換であり、世界史に刻まれた重要な出来事となっています。
目次:コンテンツ構成
ニクソンショック:金とドルの交換停止
ニクソンショックは、1971年8月15日に米国のリチャード・ニクソン大統領がテレビとラジオで全米に向けて、新経済政策(減税と歳出削減、雇用促進策、価格政策の発動、金ドル交換停止、10%の輸入課徴金の導入)を電撃的に発表し、その中の「金ドル交換停止(金とドルとの固定比率での交換停止)」のことを主に指します。
当時、金ドル交換停止は、米連邦議会にも事前に知らされておらず、極めて大きな驚き(サプライズ)を与え、またグローバル経済に甚大な影響を与えたことから「ドルショック」とも呼ばれます。
「金とドルの交換停止」の背景
1970年代初頭の米国は、ベトナム戦争などの影響で財政赤字が拡大すると共に、大幅な輸入超過で貿易赤字が大きく膨らんでいました。また、ドルが米国から大量に流出していき、ドル本位制による金とドルとの交換に応じられない状況に陥りつつあり、さらにドルに対する信任も大きく揺らいでいました。
「金とドルの交換停止」の発表と影響
そういった状況の中で、ニクソン大統領が突然発表した「金ドル交換停止」は、ドル相場の切り下げを狙ったドル防衛策であり、これによって、1944年から続いたブレトンウッズ体制(金とドルとの交換を前提とした固定相場制)が一気に崩壊しました。
その後、世界的に混乱に陥った外国為替市場を安定化するため、同年12月にスミソニアン合意が成立し、スミソニアン体制によって再び固定相場制が試みられましたが、1973年にこれも崩壊し、主要国のほぼ全てが同年中に変動相場制へ移行することになりました。
「金とドルの交換停止」の歴史的な位置づけ
ニクソンショック(金とドルの交換停止)は、1944年以降、しばらく(27年超)続いた固定相場制度を終焉させ、グローバル経済に甚大な影響を与えたことから、世界経済や為替相場の歴史の中で一つの大きな出来事になっています。
ニクソンショック:ニクソンの中国訪問
1971年7月15日(金とドルの交換停止発表の一カ月前)に発表された「ニクソン訪中宣言(ニクソン大統領の中華人民共和国への訪問予告)」も、当時の国際情勢に大きな影響を与えたことから、「ニクソンショック」と呼ばれることがあります。
「ニクソンの中国訪問」の背景
当時、武力衝突にまで発展した中ソ対立や文化大革命による混乱からの脱出などが中国側の対米接近の理由としてあり、一方でベトナム戦争の泥沼化・疲弊や中国封じ込め政策の破綻、対ソ牽制などが米国側の対中接近の理由としてあり、両国とも外交面でのパラダイムシフトが求められていました。
そういった中、ニクソン大統領の中国訪問は、キッシンジャー補佐官などが極秘に動き、秘密裏の交渉が重ねられ、中国側の招待を受け入れる形で実現しました。
「ニクソンの中国訪問」の影響
1972年2月21日にニクソン大統領が中華人民共和国を初めて訪問し、毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換し、第二次世界大戦後の冷戦時代の転機となりました。また、中国は、それ以降、アジアの国際政治におけるメインプレーヤーとして、次第に台頭していくことになりました。
なお、日本は、当時、台湾と国交関係があり、国連代表問題でも台湾を支持していただけに、頭越しの米中秘密交渉は日本の外交に大きな衝撃を与えました。
●1972年2月28日
上海で「米中共同コミュニケ」が発表され、両国は、それまでの敵対関係に終止符をうち、国交正常化に向けて関係の緊密化に務めることになった。
●1978年12月15日
米中両国は、1979年1月に国交を樹立することを発表し、1979年1月1日を以って、米国は中華民国に代わって中華人民共和国と外交関係を結ぶことになった(当時、米国はジミー・カーター大統領、中国は実権を握った鄧小平が対応した)。