ブラックマンデー(暗黒の月曜日)
英語: | Black Monday |
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分類: | 株価暴落 |
ブラックマンデー(Black Monday)は、「暗黒の月曜日」とも呼ばれ、1987年10月19日(月)にアメリカ合衆国のニューヨーク株式市場で起きた、史上最大規模の株価の大暴落をいいます。その呼称は、大恐慌時の1929年10月24日(木)に起きた大暴落が「ブラックサーズデー」と呼ばれたのに倣って名付けられたものです。
ここでは、世界の経済史に大きな傷跡を残した「ブラックマンデー」について、簡単にまとめてみました。
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ブラックマンデーの発生
1987年10月19日、香港市場から株価の暴落が始まり、それが欧州から米国に波及し、ニューヨーク株式市場において、ダウ工業株30種(NYダウ)が1日の取引で終値が前週末より508ドルも大暴落しました。その日のNYダウの下落率は、世界恐慌を引き起こした1929年10月24日のブラックサーズデーの12.8%を上回り、22.6%となりました。
この株価の大暴落は、翌日、世界の株式市場(アジア・欧州)へも波及し、ニューヨーク市場に次いで、東京市場、ロンドン市場、フランクフルト市場などでも株価が大暴落しました。ちなみに、東京市場の日経平均株価は、戦後最大の下落幅となった3,836.48円、また戦後最大の下落率となった14.9%を記録しました。
ブラックマンデーのその後
ブラックマンデーによって、世界を揺るがした株価の大暴落(世界同時株安)は、ニュージーランドや香港、オーストラリア、スペイン、英国などでは、米国以上に株価が大暴落し、経済的に大ダメージを与えました。
その後、主要国の金融当局による政策協調によって、世界恐慌を招くことなく(実体経済への甚大な被害をもたらすことなく)終結し、また再発防止策として、サーキットブレーカー制度などの規制措置の導入にもつながりました。
当時、金融緩和政策を取っていた日本は、世界同時株安の影響から一早く離脱し、「バブル経済」へと突き進むことになりました。そして、ブラックマンデーから約2年後、1989年12月29日に日経平均株価が史上最高値の38,957円44銭を付け、1990年代初頭にバブルが崩壊しました。
ブラックマンデーの主な要因
米国史上最大の株価暴落率(-22.6%)となった、ブラックマンデーの要因として、一般的には以下が挙げられます。
・米国の財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」が拡大傾向にあった。
・1985年のプラザ合意以後のドル安(インフレ懸念)打開のために、ドルの金利が引き上げられる観測が広がっていた。
・旧西ドイツの金利高め誘導を米財務長官が批判し、国際協調体制に綻びが見られていた。
・直前の1987年10月15日に米・イラン間の軍事的緊張が高まり、原油市場に対する不安が沸き起こっていた。
・当時普及し始めていたコンピュータによるプログラム取引(売買)が、ある程度株価が下落すると損失を最小限にしようと自動的に売り注文を出すため、売りが売りを呼ぶ「負の連鎖」を引き起こした。