三洋証券

三洋証券は、1910年から1997年まで、日本に存在した証券会社です。営業当時、東京都中央区に本社を置き、国際証券、勧角証券、新日本証券、岡三証券などと共に、準大手証券の一角を担っていましたが、1997年にバブル崩壊以降の経営難により破綻しました。

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三洋証券の概要(経営破綻)

三洋証券(Sanyo securities Company Limited.)は、長年、東証一部上場の準大手証券の一つとして世間に知られていましたが、1997年にバブル崩壊以降の経営難により破綻し、日本の金融危機の引き金を引きました。

なお、会社名に「三洋」という名称が入っていましたが、三洋電機や三洋信販とは全く関係がありませんでした。

三洋証券の経営難の要因

バブル期の過剰な設備投資が経営難の要因として注目されますが、致命傷は債務保証先である子会社の「三洋ファイナンス(ノンバンク)」がバブル期に行った不動産関連の巨額融資でした。

当時、融資の多くが不良債権化していましたが、三洋証券自身がバブル期に行った積極投資のツケに喘ぐ状況で子会社を処分する予力がなく、そういった中、市場の好転を期待して決断を先送りしたことで、債務が雪だるま式に膨張することになりました。

三洋証券の破綻による影響

三洋証券は、1997年11月3日に会社更生法の適用を申請し、翌日(11月4日)に裁判所が資産保全を命令したことで、コール市場と債券貸借市場で戦後初の債務不履行が発生し、大混乱(信用収縮)に陥りました。

この信用収縮をきっかけに、日本は1997年から1998年にかけて、深刻な金融システム危機に襲われ、大手金融機関の破綻が相次ぐことになりました(当時は、アジア通貨危機とも重なっていた)。

・1997年11月3日:三洋証券が会社更生法の適用申請
・1997年11月15日:北海道拓殖銀行が営業継続断念
・1997年11月24日:山一證券が自主廃業
・1998年10月23日:日本長期信用銀行が特別公的管理銀行
・1998年12月13日:日本債券信用銀行が特別公的管理銀行

三洋証券の沿革(1910年-1997年)

三洋証券は、1910年に創業された歴史ある証券会社で、特にバブル期に一世を風靡しましたが、1997年に経営破綻しました。

三洋証券の成長と拡大

三洋証券は、1910年創業の有価証券現物商「土屋鋭太郎商店」を前身とし、オーナーだった土屋家の意向などで中小証券を相次いで合併して総合証券会社となり、準大手証券の一角を担うまで成長しました(日本各地に店舗網を有した)。

◎1910年に「土屋鋭太郎商店」として創業する。

◎1943年に「土屋證券」に法人改組する。

◎1944年に「日東證券」に商号変更する。

◎1971年に湘南証券、江口證券、大一呉証券を吸収合併し、「江口日東証券」に商号変更する。

◎1973年に「三洋証券」に商号変更し、総合証券会社となる。また、東証・大証・名証の第二部に上場する。

◎1975年に東証・大証・名証の第一部に指定替えとなる。

◎1988年に世界最大規模のトレーディングルームを竣工する。

三洋証券の衰退と破綻

日本の証券業界が空前の活況に沸いたバブル期において、三洋証券は積極経営を行って急速に業容を拡大しましたが、バブル崩壊により経営が大きく悪化しました。

1992年から破綻する1997年まで、6期連続で赤字を出し、その間、旧大蔵省証券局主導の下で、護送船団方式による再建計画が策定されたほか、救済合併も画策されましたが、結局、どれもうまくいきませんでした。

そして、護送船団方式で、三洋証券に劣後ローンを提供していた生命保険各社が最終的に返済延長を認めなかったことで、自己資本規制比率が120%を大幅に下回り、自力再建は不可能と判断し、1997年11月3日に証券会社として戦後初の会社更正法の適用を申請し、事実上倒産しました。

◎1992年にバブル期の積極経営のツケで赤字転落する。

◎1994年にバブル崩壊による経営悪化で、旧大蔵省証券局主導の下で護送船団方式による再建9カ年計画が策定される。

◎1997年に会社更生法の適用を申請し、経営破綻する。これに伴い、大蔵省は新規の売買取引を停止させる業務停止命令を出し、翌日以降、顧客の株の返還や中国ファンドの換金などに限って営業を続けることになる。

◎1998年に再建スポンサーとして名乗り出ていた三井海上火災保険が一部業務の承継を検討するも断念し、これにより更生管財人は経営再建を断念すると発表した(全従業員解雇)。

◎1999年に東京地方裁判所より破産宣告を受ける。その後、2009年に破産手続終結の決定を受け、法人消滅となる。

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