安田信託銀行
安田信託銀行は、1952年から2002年まで使われた金融機関の商号で、現在の「みずほ信託銀行」の前身行の一つです。
その商号からも分かる通り、安田財閥の系譜を継ぎ、営業当時、年金・不動産部門に強く、またリテール部門では「オヨヨネコ(市川みさこのギャグ漫画の太った猫)」を通帳等のマスコットキャラクターに採用するなど、積極的に業容の拡大を図っていました。
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安田信託銀行の概要(現在・みずほ信託銀行)
安田信託銀行は、安田財閥の系譜を継ぐ、芙蓉系の信託銀行でした。営業当時、年金・不動産部門に強く、土地信託などを積極展開しましたが、バブル崩壊後の経営悪化により、芙蓉グループに支援を要請しました。
これにより、富士銀行(現・みずほ銀行)による支援が本格化し、1999年3月に同行の増資を受けて連結子会社となり、それに伴い、店舗の共同化など各分野での連携を強めたほか、年金・証券管理・証券代行の3部門を旧みずほ信託銀行へ譲渡しました。
そして、2002年4月に「みずほアセット信託銀行」に社名変更し、2003年3月に旧みずほ信託銀行との合併により「みずほ信託銀行」となりました。
バブル崩壊後の経営危機
安田信託銀行は、不動産部門に強みを持ち、バブル期におけるノンバンクや不動産、建設業などに対する過剰融資がバブル崩壊に伴い不良債権化して、経営の重荷となっていました。
1997年に消費税率が引き上げられたことを契機に国内景気が減退し、それにアジア通貨危機が重なり、さらに同年11月に三洋証券や北海道拓殖銀行、山一證券などが経営破綻したことで、安田信託銀行も経営危機に陥りました。
経営危機への対応
安田信託銀行は、日本が金融システム危機に陥った時期(1997年-1999年)は経営危機に苦しみましたが、1999年に富士銀行の連結子会社となって以降は、生き残りの道が見えてきました。
◎富士銀行や安田生命などの芙蓉グループに支援を要請し、自己資本増強を行った。また、永久劣後債による1500億円の公的資金注入を受けた。
◎支援に伴い、富士銀行が筆頭株主になって以降、互いに協力しあった。また、安田信託は大規模なリストラを推進した上で、スリムで特色のある専業信託を目指した。
◎1999年3月に富士銀行は、安田信託分を含む総額1兆円の公的資金を預金保険機構に申請し、その内の3000億円で安田信託の第三者割当増資を引き受けた(これによって、安田信託は富士銀行の連結子会社となった)。
安田信託銀行の沿革(1952年-2002年)
安田信託銀行は、昭和から平成の日本がまだアナログだった時代(1952年-2002年)、東証一部に上場する信託銀行の一つとして世間に知られていました。
安田信託銀行の形成期
1925年に信託業法に基づき「共済信託」として設立され、1926年に「安田信託」に改称後、戦後の財閥解体政策により「中央信託銀行」に改称され、1952年に現社名(安田信託銀行)に改称されました。
・1925年05月:大阪に共済信託を設立
・1926年02月:安田信託に改称
・1933年02月:本店を東京に移転
・1948年03月:中央信託銀行に改称、銀行業務開始
・1952年06月:安田信託銀行に改称
安田信託銀行の経営危機と変遷
1990年代は、日本でバブルが崩壊し、金融業界が巨額の不良債権に苦しんだ時代であり、そういった中、安田信託銀行も経営危機に陥り、富士銀行や安田生命など芙蓉グループからの支援を受けて凌ぎ、1999年に富士銀行の連結子会社となりました。
そして、都銀再編で、2000年に第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行およびその関連企業が経営統合して「みずほホールディングス(現・みずほフィナンシャルグループ)」が発足して以降、幾度かのグループ内の再編を経て、安田信託銀行は最終的に「みずほ信託銀行」となりました。
・1999年04月:富士信託と第一勧業信託が合併して「第一勧業富士信託銀行(DKFTB)」が発足
・1997年11月:経営危機に陥る、赤字決算で投機的格付に、株価が暴落
・1999年03月:富士銀行が安田信託銀行の第三者割当増資(3000億円)を引き受け、安田信託は富士銀の連結子会社になる
・1999年10月:DKFTBに安田信託から財産管理部門の運営ノウハウ・人員等の営業譲渡が完遂され、DKFTBは法人向けの信託銀行として営業開始。一方で、安田信託は個人向けの信託銀行となる
・2000年10月:第一勧業富士信託銀行と興銀信託銀行が合併し、旧みずほ信託銀行が発足
・2002年04月:安田信託銀行がみずほアセット信託銀行へ改称
・2003年03月:経営効率化を図るため、みずほアセット信託銀行と旧・みずほ信託銀行が合併して「みずほ信託銀行」が発足