ルーブル合意
読み方: | るーぶるごうい |
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英語: | Louvre Accord |
分類: | 合意 |
ルーブル合意は、1987年2月22日にフランス共和国のパリのルーブル宮殿で開かれた、G7(先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議)での「為替レートの安定化に関する合意」をいいます。
1985年9月22日のプラザ合意(米国の貿易赤字の縮小を目的としたドル高の是正)を契機に加速していたドル安に歯止めをかけるための合意でしたが、各国の協調が十分ではなかったため、結局、ドル安に歯止めをかけられませんでした。
※G7:米国、日本、英国、西ドイツ、フランス、イタリア、カナダ
目次:コンテンツ構成
ルーブル合意の内容
ルーブル合意では、ドル安に歯止めをかけるために、「為替相場を現行水準の周辺に安定させる(これ以上のドル安は望ましくない)」という内容でした。
また、具体的な対応としては、(1)各国通貨の変動に緩やかな許容範囲を設ける、(2)この範囲を超えた時は、当該通貨当局が協議の上で市場介入を行ない、各国はこれに協力する、というものでした。
ルーブル合意の背景
ルーブル合意の背景として、プラザ合意以降、外国為替市場は予想を超えて変動し、実際に円相場では、1ドル=240円台であったのが一本調子で下落し、1987年2月には1ドル=150円台に達するなど、日独などで通貨高による弊害が深刻化していました。
その一方で、米国でもインフレ懸念が再燃し、また資本流入が鈍化し、さらにドルからの逃避がドル安を加速したことから、今度は各国が「過度のドル安に対する懸念」を共有したことがありました。
ルーブル合意の政策協調とその後
ルーブル合意では、為替レートを安定させるために「緊密な政策協調を行う」ことが宣言され、その中で、日米の金融政策においては、日銀が利下げ、FRBが利上げといった政策協調が行われました。しかしながら、その後、日米欧の協調の足並みが大きく乱れ、結果として、ドルの下落を止めることができませんでした。
なお、1987年10月19日のブラックマンデーは、西ドイツが米国の反対を振り切り、国内のインフレ懸念から金利の高め誘導を行ったことから、マーケットに「政策協調は破綻した」と受け止められ、次第に金利先高感が台頭したことが一つの引き金になったとされます。